週刊新潮が松下金融相を殺したのか?

松下金融相が自殺した、というニュースを見た。
江東区の東雲に住んでいる、という事実にやや違和感を感じたものの
それ以降情報に接する機械がなかった。

今日、地下鉄で週刊新潮の中吊りをみて、合点がいった。
女性スキャンダルを報じられた事で、
自殺したのだろう、と推測するのが、自然であろう。

まぁ、正直、その新潮を買って、
熟読したい、という気持ちはわかなかったのだけど
同時に感じたのは
この事実を新潮編集部はどのように、うけとめているのだろうか、
ということである。

いじめの自殺問題で、
週刊誌は(明確に記憶はないが)、
いじめにたいしての大キャンペーンを張っていて
この件とはべつだが、凶悪犯罪では、
少年の名前さえ平気で報道するのが週刊新潮だったと記憶している。

さて、今回の大臣についての報道は、
社会的に意義のあったことなのか、
たんなるメディアの気分次第のいじめなのか、
というのが、頭にずっと浮かんでいる問題である。

昔の政治家がよかった、という話がある。
メディアが愛人がいようが、まぁ暗黙のうちに、報道を控えていた

しかし、写真週刊誌や、おそらく、雑誌の購読者数の減少もあるのだろう、
中身がどんどん過激かつゲスになってきている、という指摘はよく聞くところである

宇野宗佑という人がいた
総理になんてなるとは本人も思っていたなかっただろう、
が、総理になった。

すると、お金をもらって愛人だった、という女性が過去の関係を暴露した(どこかのメディアで、確かTBS?)
結果、辞職した。

この件について、
そもそも、そんなことを話女と付き合うべきではないとかそんな話が話題になった
(橋下市長もそんな論調だった)

しかし、今回の件でも、
自殺するしか覚悟がないのであれば、浮気なんてするんじゃない、
など、なんか本質と違う結論でお茶が濁されてはいけないと思う。

正直、浮気なんて結構日常の風景ではないだろうか?(僕の周りではそうだ)
それが税金で給料をもらっていると、ゆるされなくなるのだろうか?
日本がどんな方向にいくべきか、という時代に、
得意げに大きな活字を踊らせて、スクープとか大々的に歌う価値がある報道なのだろうか?

雑誌の広告位が減り続けている、というブログを読んだ。

昭和世代はこんな記事で熱くなったのかもしれないが、
さて、この広告費と今回のようなどうでもよさそうで、犠牲者まで出した記事の
相関関係を考えてみたくなるである。