吹奏楽部の顧問の先生の思い出

 

僕の通った中学は、家から歩いてすぐにある。すぐにある割には、体育館が建て替えられていたことに、今日気がついた。どうでもいいけど。

ただ体育館のことを思うと、なぜ部活で、僕が所属していた吹奏楽部は夏休みの数カ月間、つまりコンクール前、体育館を使えたのか?と疑問が生じる。

当時体育館は、バスケ部、バレー部、卓球部、新体操部が使っていて、音楽室がある吹奏楽部が、コンクール前の期間限定とはいえ、体育館を占拠するのは相当大変なことだったと思う。

どんな仕組みで、条件が決まるのか全くわからないが、コンクール前は決まって、体育館で練習できたのは、顧問の先生のお陰なのだろう。

顧問とは、小さくて、決して若くない女性の音楽の先生で、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

とはいえ、今思えば、卒業式後の三年生のお別れパーティーや、十五歳時の隣県へのお参りのバスツアーなど、取り仕切ってくれた。

当時はなんか当たり前のように、アレンジされたそんな行事に嬉しく参加したが、ブラスバンドの本筋から外れたサービス残業のような手配を色々してくれたのは、ありがたい話だ。

なのに、校歌を服部克久にアレンジしてもらおう、お金の概念なくいう私は、面倒な生徒だったと思う。

夏休みの体育館の、利用も、他の先生と軋轢を起こしながら、権利を獲得し、そんな話を微塵もせず、練習に向けてベストな環境を作ってくれて、3時には、アイスの差し入れまでアレンジしてくれた先生に、当時どれだけ感謝できたのか?

相当怪しい。


そしていま、その後の様子も伺ってはないが、ありったけの感謝をしたい、と新しい体育館を見て思った。お元気なのだろうか?菅野先生?

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